見出し画像これはnoteに挙げた過去記事のアーカイブ。
6月1日、緊急事態宣言が解除されて一週間がたち、人々の間の自粛ムードもだんだん薄まっているって状況で、同じように意識を緩めたぼくは、横浜のアソビルで開催中の「バンクシー展 天才か反逆者か」へと向かった。今回はそれをレビューしていこうかなって思う。

 

レビューって言っておきながらなんだよって感じを与えるかもしれないけど、この展覧会の内容やバンクシーの作品を細かく伝えていこうってつもりはさらさらないことにだけ注意しておいてほしい。ぼくがこの文章でやろうとしていることは、この展覧会をきっかけっとして抱いた危機感の表明である。

もはやぼくがやる必要あるのかって思うけど、とりあえずバンクシーについては軽く触れておきたい。彼はイギリスを拠点とするグラフィティアーティストで、各地にゲリラ的な作品、それも世界情勢や資本主義を風刺したスタイリッシュなものを作ることでおなじみの、今世界で、もちろん日本でも最も注目されている現代美術家の一人だ。オークションで落札された瞬間に作品をシュレッダーにかけてその作品の価値をアップさせたり、法を無視して勝手に書いたのに小池都知事に「東京への贈り物かも」なんて言われたり、最近だとコロナと闘う医療従事者を応援してるんだか風刺してるんだかよくわからない絵を病院に寄付したりと、とにかくことあるごとに話題になる。

そんな彼の作品が、アソビルに展示されていたわけだ。アソビルっていうのは2019年の3月に横浜駅のすぐ隣にオープンした「新感覚のエンターテインメントコンテンツを体験することが出来る複合型体験エンタメ施設」だ(アソビル公式HPより引用)。正直な話をしてしまうと、美術館ではなくそういう場所で開かれるって時点で、ぼくはこの展覧会は美術展というよりむしろ、いろいろ見ながら写真撮ってSNSに挙げて周りから反応をもらおう!的な、つまりタピオカランドとかの延長線上にあるものではないかという色眼鏡で見ていた。
そういう形で現代美術が紹介されるのは必ずしも悪いことではないと思う。美術評論家から高く評価されるほどではなくても、ある程度しっかりしたキュレーションのもとで展覧会が行われ、そのうえでSNS映えという効果によって多くの人が来てくれて現代美術に注目するきっかけとなってくれれば、業界にとっていい影響だといえるだろう(というか最初から人の少ない界隈なんだから、なんとか人を呼び込まないといけないって、個人的には思う)。


話をバンクシー展自体に戻そう。「まあとりあえず楽しむ感じで向かって、批評的に見る価値があるならそう見てみよう」っていう、完全になめてかかってる態度でアソビルに着いたぼくは、その会場の遊園地のような感じを楽しみ、こんなツイートをした。たった5文字だけど、完全に楽しんでるってことは伝わるだろう。

 

しかし単に楽しむってわけにはいかなかった、ていうのがこの記事をここまで読んでくださった皆様にはわかると思う。ぼくがあるものを見て、「なんだこれは」って思ってしまったからだ。
それがこれ

 

バンクシーが(おそらく)パレスチナとイスラエルの問題に関心を持ってもらいたいという目的で現地に建てたホテルの一室の再現らしい。枕で殴り合う両陣営の兵士たち(パレスチナの側は、状況を反映しゲリラのような見た目である)のグラフィティは、まさしくバンクシーって感じだろう。

これがなんと、「インスタ映えする目玉のフォトスポット」的な扱いになってたんだよね。今はコロナの影響でベッドに触ることは禁止されているけど、前は座ったりすることができたらしい。本当に「やれやれ」って感じる。

だってあまりに無神経じゃん。現状起こっている悲惨な出来事に対して、結構危険な現地まで行ってホテルを建てて芸術を作り、ってやってるバンクシーは「マジ」だろうに、じゃあその部屋再現して写真撮ってみよう!ってさ。あまりにも「芸術がある特定の場所において提示されること」の意義を軽視しすぎで、かなり安易じゃん。

参考として挙げる本の著者である吉荒さんによれば、地元の人々の中には、現地にあるホテルなどのバンクシー作品を目当てに訪ねてきた人々について、彼らは「バンクシーの作品がどこにあるか宝探しするだけで、分離壁のことを議論しようとしない」と嘆く人もいるそうだ。これについて吉荒さんは、バンクシーのすぐ横にある巨大な分離壁や社会的差異は嫌でも目に入る、と、バンクシーの行動とそれによって人をパレスチナに集めた意義を高く評価しているし、ぼくもその意見に賛成する立場だ。

でも横浜はパレスチナじゃあないので、結果として社会問題を消費してるだけになってしまっている。観光客に苦言を呈していた人々がこの状況を知ったら言葉を失うだろうってことは簡単に想像できる。

ちなみにこれは場所性と直接には関係のないことなのだが、バンクシーでまとまった展覧会をやるときの問題点として、彼が様々な種類の社会問題を題材にしているので、一つ一つに対する掘り下げが浅いものになってしまい、結果として鑑賞者の認識が「いろいろ考えさせられた」で止まってしまいがちであり、そこから進展しづらいという点は言及しておく価値があるだろう。

本題に戻ろう。
この無神経さに腹を立てたぼくは、展覧会の細部を注視してみた。そしてこんなものを見つけることになる。

なるほどねって思う。はじめっから真面目にキュレーションしようって気がなかったのかな、とも感じる。

吉荒さんも繰り返し指摘し、著書の5章のうちの1章を「ストリートアートと場の密接な関係」としてその説明に費やしているように、それが書かれる場所というのはストリートアートにとって極めて重要な要素である。つまりグラフィティそれ自体だけでなく、それがある場所(パレスチナだったり、高級住宅街だったり、かつて暴動が起きたイギリスの地方都市だったり)に書かれたという「文脈」もアートたるためには肝要なのであり、その取り入れ方がうまい点もバンクシーが高い評価を受けている所以なのである。それを「表面的な性質」とキャプションに書くこと自体もどうかと思うし、場所を軽視していることの証拠例として展示の無神経さがあるな、とも思う。

この展覧会では、一部の作品はバンクシーが書いた壁から絵だけをひっぺ替えして持ってきたもの、つまり本物のグラフィティなんだけど、それって結構リスキーな行為だよな、って思う。アート、特にストリートアートをアートとして成立させ、書かれたイメージに重層性を与えるような重要な「文脈」が「どこに描かれたか」、つまり場所性であるわけだから。そこを重視できない、今回のような展覧会に対しては、バンクシーとその作品をただイメージとして消費しているだけだな、って感じてしまう。

バンクシー展についての批判はこれくらいにしておこう。こういう、「これは場所性を書いているんじゃないか?」っていう疑念はわりと頻繁に自分が抱くもので、結構危機感、みたいなものを感じたりはする(悪い意味でのテーマパーク性、みたいな。だって浦安とディズニーって何の土地的連関もないに等しいじゃん)。

参考文献 

吉荒夕記『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』美術出版社、2019